私たちは、自分の上に権力を持つ人の前に出なければならない時がある。例えば、就活中の面接、上司や社長との会議の場など。そのような場で失敗しないために必要なのは、権威者の言葉に傾聴して相手が言おうとしていることをきちんと理解し、その上で謙虚に応答しようとする胆力だ。逆に、権威者の前で慌てて(自分勝手)に振舞うと、その人は信頼を損ねたり怒られたりする。・・・権威者の前にあっては、『踏みとどまる』ことが、とても大切なのである。ましてや、神の御前では、なおさらである。
<引用終わり>
追記:
今朝の説教の要点の一つは、主イエスが宣教の公生涯の第一歩を踏み出されたとき、そこには、父なる神様の前に服従し、神の御声を祈りつつ待ち、父なる神の愛と聖霊を頂いてから行動を開始するという、人としての徹底した神の御前にあってへりくだりの姿勢があったということである。そのへりくだりは、主イエスがご自分で宣教活動を計画して、その計画を神に承認してもらおうとする態度とは全く違い、むしろ、天からの声を待ち、地にあって踏みとどまっておられるお姿である。
キリスト者の中には、安易に、『祈っていたら、神からあれこれのことをするようにと、お告げを受けた。』という意味のことを言う人がいる。しかし、そのような発言に対しては、発言している本人も、発言を聞いている他の人も、よくよく注意しなければならない。なぜなら、そのような発言の本質は、地において人が思い描いた願望を、人が天へと祈り、その願望に神が承認を与えたと思う、ということを言っているに過ぎないことが多いからである。
主イエスの祈りは、天を開く祈りだった。その結果、神が語り掛け、聖霊が下られた。これは、『神様のお告げ』としては最上級、かつ、最高の祝福である。しかし、その最高最大の神の言葉が主イエスに実際に告げたのは、『あれこれのことをせよ』ということでは全くなく、心からの聖霊の満たしと、『わが愛する子よ。わが喜ばしい子よ!』という愛の言葉だったのだ。そして、主イエスはその愛に促されて、歩んだのである。
何かをするようにと神からお告げを受けたと、強く主張する人は、その主張が強ければ強いほど、逆に、神からの愛の言葉に飢えているのだと考えることは十分にできる。神の愛が伴わないような神からのお告げを、神からのものだと言ってはならないし、そのようなお告げに巻き込まれないように、私たちはよくよく注意しなければならないと思う。神に従っている人は、神に導かれている人は、神の愛に満たされている人だ。その人は、きっと、強い主張によってではなく、愛の行動によって自らを表現してゆくはずだ。
私たちは、愛による自己吟味を怠ってはならない。愛によって、人の発言の真意を気を付けて見定めなければならない。