英語での最初の歌い出し:“Jesus loves me this I know. Because the Bible tells me so.” 直訳すると、『主は私を愛していて下さる。私はそれを知っている。なぜなら聖書がそう言っているからだ。』 しかし、聖書がそう言っているからというだけの理由で、イエスが私たちを愛したとは言えない。聖書に書かれているという、それだけの理由では、その言葉は何ら権威を持たない;いやむしろ、それだけの理由で言葉を権威づけてはならない。
本当の意味で私たちに主イエスの愛を証明し、権威をもって私たちの心に語るものは何か。それは、主が私たちの救いのために、十字架で死なれたという一つの出来事に他ならない。神の出来事を聖書は伝えるからこそ、聖書の文字は権威を持ち、私たちに主イエスの愛を伝えることができるのだ。
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この週報コラムの記事は、礼拝当日の説教メッセージの内容にインスパイアされたものである。ルカ4:9-15において、悪魔が主イエスを誘惑する際に用いた手段は、他ならない、聖書を引用してのことだったからである。主イエスが、後に語られる、種をまく農家のたとえ話では、『悪魔が人の心からみ言葉を持ち去ってしまう』と教えられている(ルカ8:11) しかし、み言葉が持ち去られるということはいかなることであろうか。それは聖書の言葉を忘れてしまうということだろうか。そうではないと思えてならないのである。
悪魔がみ言葉を持去る理由は、ただ一つ、『人が信じて救われることがないように』である。その目的のために、悪魔は、主イエスに対して詩篇91篇(11節と12節)を投げかけたのである。そのみことばによって、主イエスに、根本的に神を疑うような行為をさせようと仕向けたのである。信仰を失うようにと誘惑したのである。とすると、悪魔は、しばしば、聖書のみ言葉それ自体を私たちの心に植え込み、それによって、不信仰を引き起こそうとすることがある、ということになる。
だとすると、聖書のみ言葉を悪魔が持ち去ってしまうとは、その書かれた文字としての情報が持ち去られるということではなく、むしろ、その言葉が持っている本来の意味、霊的な力、神からの愛の語り掛けを盗んで持去り、逆に、みことばの意味を捻じ曲げて人の心に植え付けることで、その人の心が神を信じないように、その人やほかの人をも不信仰へと導かれるようにする、ということであると考えられるのである。
キリスト者が立つべきなのは、聖書主義ではない。聖書主義それ自体は、下手をすると不信仰主義に変貌するからである。教会が立たなければならないのは、神の恵みを信じる信仰である。聖書そのものに立つのではないのである。