<引用終わり>
しかし、ルカ4:16-22において、シナゴグで起こった事件は、人々の心が神に向かわず自分たちの正しさへと向き、目の前に立たれる神の御子を、【この者は神の子ではない!】と否定してしまったという不信仰の問題であった。この不信仰は、ナザレの者たちだけでなく、パリサイ人にも共通した心のかたくなさである。そして、この心の頑なさは、やがて主イエスへの殺意となって噴出し、猛威を振るうことになる。
礼拝をどのような建物の中で持つか。どのような伝統や、習慣や、しきたりに従って行うか。その外見的な事柄は、どんな在り方でも良いのである。【なんでもあり】なのである。何千人も集まる高度に形式化された礼拝でも、数人で集う家庭集会でも、その場で神様が人々に求めておられることは、そこに集う人々の【心】が、礼拝者の目の前に立たれる救い主イエスを、神の子として信じ、信頼し、讃美を捧げているかどうかなのではなかろうか。
真の礼拝を求めて、教会という組織から離れた人も、教会組織から離れたというそれだけの理由で、真の礼拝者になったと思ってはならない。また、教会という組織の中にとどまる者も、教会にとどまっているというだけの理由で、自分たちが真の礼拝者だなどと思ってはならない。
礼拝とは、主イエスを拝し、主イエスの前に心からへりくだることである。それは、カトリックの大聖堂の中でも、自分の部屋の中ででも、等しく起こり得る、心からの礼拝行為なのだから。