しかし、主イエスの十字架と復活の御前で考えるなら、私たちが生きることとは、私たちが先ず死ぬことです。そして、その死の現実の中に、神の恵みの力がはたらき、神が神で在られる栄光が輝き、キリストが私たちのいのちそのものとなり、聖霊を通して注がれる圧倒的な神の愛を私たちが日々知ることです。「生きる」ということは、「ただ、ただ、キリストを信じる」こと、あるいは、「キリストが、私のすべてとなってくださる」ことだと言えるでしょう。
人間は、現世においては、生きるために生きているようで、実は、死へと向かって生きています。しかし、神の国では、私たちは、たとえ死んでいるように見えても、実は、まことのいのちに向かって、キリストの十字架と復活の力に結ばれ続けて、日々を存在します。私たちが生きるということは、文字通り、「キリストが、私たちを生きてくださる」ということなのです。学者の知識ではなく、人の努力でもなく、ただ、信仰によって、キリストにあって私たちに与えられている、天にある栄光のいのちを日々の希望として、私たちは神への感謝と讃美に満たされながら、今を過ごします。そして、生きるのです。