私たちの父はアブラハムだ! アブラハムを先祖として持つことは、ユダヤ人にとっては、『自分たちは神に救われている』という誇りそのものだった。その誇りをお互いに確認し合い、スクラムを組んで、『イエス様、私たちにはあなたの救いなど必要ありません!』という態度ではいけない!それは危険だ!と、ヨハネは(ルカ3:8で)警告する。自分たちの伝統や聖書理解の正しさをお互いに確認し合い、それを誇りとし、イエスさまの声にさえ耳をふさいでしまうとき、教会の足元には、神の裁きが迫っているのである。 <以上> 追記: 筆者は、今週、説教個所の ルカ 3:1-14 と格闘する中で、一つのことに、改めて気付いた。それは、自分自身の心は、自然と主イエスから離れようとするものだということである。「悔い改めとは何か」と考えているとき、心の思いは、すぐに、自分自身の行いの正しさや間違いの問題に傾いて行ってしまう。そして、その人間の間違った行いに対する罪悪感や、正しい行いの誇りの中に、主イエスが消えてしまうのである。主イエスが消えたところには、もう救いはないのである。 |
・・・これは、一つの『賭け』である。
自分が望むように善を行ったり、悪をやめたりして生きて、自分に満足して、そして主イエスを失うか、
それとも、
自分が望むように善を行ったり、悪をやめたりして生きて、自分に満足する自由を放棄し、そして主イエスと供に歩むか。
二つに一つ。