<以上>
追記:
上の記事は、実は説教者が説教の中で言及したかったけれども時間の制約からそれができなかった部分でもある。預言者にはある一つの共通点がある。それは、神が彼らに言葉を与えて民へと遣わされるとき、それは民が悔い改めて神と和解するという素晴らしい出来事が起こるということを決して前提にはしていないということである。むしろ、その逆で、神は、預言者を、反逆することが分かっている民へと遣わされ、預言者は、その結果、決まって、苦悩の底に陥るのである。
主イエスも、預言者として同じ状況に陥ったのである。主イエスの十字架は、民による、神の預言者に対する反抗の極みである。それまでの、民イスラエルの神の預言者たちに対する度重なる反抗の歴史を見れば、十字架は神の想定外の出来事などでは決してなく、むしろ、主イエスが神の子であるが故、運命的な不可避な出来事であったといえる。
十字架は、決して、事故ではない。
神が『遭遇』した出来事ではない。
神が望んで予定したことでもない。
神が神であり、主イエスが神の御子であり、人が罪人であるが故に、
必然的に起きた出来事なのである。
そして、そのように、人の罪ゆえに必然として起こった出来事によって、同時に、神は人間を罪から救ってくださった。
それは、神の恵みと愛が、人の罪よりも大きく、罪を飲み込み、罪に打ち勝っているからである。
主イエスの十字架は、救いの現れそのものなのである。