2016-05-22
文脈を読む大切さ:1コリント1:19の『わたしは知恵を滅ぼし・・・』という言葉は、イザヤ書29:14の引用だ。この一言は、神を自らの味方につけた信仰者の立場から、非信者に対して『神、汝らを滅ぼすなり!』と言い放たれては決してならない。なぜなら、イザヤ書の文脈を考慮すると、この一節は、心が伴わない、口先だけの、形骸化した、人間の自己満足的な礼拝行為を神は拒まれるという、神の民に対して悔い改めを求める預言に他ならないからである。このように考えると、パウロがここで問題としているのは、神が非信者を裁いたり滅ぼしたりされる、ということでは決してなく、むしろ教会内部においてキリスト者の信仰が形骸化して自分勝手になる傾向に対する、悔い改めと矯正を求める言葉として、私たちに迫る。 すなわち、滅びなければならないのは、非信者ではなく、むしろクリスチャンの心の中に巣くう自己中心的なプライドなのである。そのプライドが悔い改められないところには、分裂が生じてしまうのである。
<以上>

教会の、世界へのメッセージの一つは【悔い改め】である。教会は、しばしば、世にはびこる悪に敏感で、それを裁いて糾弾する使命感に燃えている。だが、しかし、この【悔い改めよ】というメッセージは、教会自体が率先して悔い改めている群れでなければ、無責任・一方的・抑圧的な命令となる危険が大きい。命令するものは傲慢に陥り、命令される者はしいたげられて疲弊する。いずれ両者の間には敵意が生まれて分裂するか、不健康な主従関係が生まれて虐待やカルト化が生ずる。主イエスはそんな、人間同士が争いあったり、誰かが誰かを支配するような教会を望まれているはずがない。
