<週報からの引用終わり>
今回の説教では、「律法と預言者」、すなわちヘブル語の聖書(旧約聖書と呼ばれているが)の中で、神の恵みを証言する箇所として、民数記20章を選んだ。この箇所では、モーセとアロンが、民イスラエルの罪を至極全うな理由に基づいて「逆らう者たちよ!」と厳しく裁いているが、父なる神は、その逆らう民に対して、一方的に恵みを施しておられる。そして、神であるご自分と同じように、民に対して恵み深い心を持とうとしなかったモーセとアロンを、逆にお責めになっておられる。これが、モーセ五書としての「律法」が証言する、神の恵み、神の聖さ、そして神の義である。
同様の出来事が、「預言者」によっても証言されている箇所がある。それは例えば、ゼカリヤ書3:1-5である。この箇所では、バビロン捕囚の後にエルサレムへの帰還が許されたユダヤ人たちの指導者である大祭司ヨシュアと、サタン、すなわち「責め立てる者」が、共に神である主の前に立つ。当然、責め立てる者、咎める者であるサタンは、バビロンの捕囚を引き起こした民イスラエルの罪の数々を引き合いに出し、それを律法と比較して、ぐうの音も出ないほどに大祭司ヨシュアを始め、彼が代表している所の民イスラエル全体に対して「許されざる者たち」としての裁きを下していたことだろう。サタンには、そのような裁きの宣告を下す理由と根拠が十分にあったし、その根拠は、神の言葉にさえ求めることが出来たのである。
・・・しかし、驚くべきことは、ここで、神である主がとがめているのは、大祭司ヨシュアでも、民イスラエルでもなく、むしろ、正統な理由と根拠をもって民を責め立てている、サタンの方だ、という事である。そして、逆に、反逆に反逆を重ね、偶像崇拝に偶像崇拝を重ね、罪のどん底に落ちて汚れてしまった大祭司ヨシュアを、その着物をすべて取り換えることを通して、神は清めようとしてくださっておられるのである。このゼカリヤ書3章の箇所においても、神の民イスラエルに対する憐れみと恵みが、律法による正当な裁きよりも優先され、勝利しているのである。これが、「預言者」が証言する、神の恵み、神の聖さ、そして神の義である。
そして、私達自身が、キリスト者として問われることになる。
私達は、この恵み深い父なる神の御前で、どのように人と接するべきなのであろうかと。私たちが現わす、私達の心の中の「神」は、私達を見る人々の目に、どのような神として現れているだろうかと。私たちは、神を、恵み深いお方として現わしているだろうかと。
教会の様々な教理や、聖書解釈は、究極的には、その主張がどれほど学問的に洗練され、しっかりと理論構築されているかによって量られるのではない。すべては、神ご自身のご性質に対して量られるのである。したがって、聖書解釈を云々する人に求められているのは、その人の心に、神の恵み、そして神の厳しさに関する神学がしっかりと確立している事である。それは、幼子の神学である。