【祈りの課題】
私たちの願いに神がお応えになることより、私たちが神の心の願いに応えることの方が、もっと、もっと、もっと、大切です。神の心の、私たちに対する願いとは何でしょうか。
<週報からの引用終わり>
今朝の礼拝は、いつもの形式から少し(かなり?)離れて、説教の時間を小グループに分かれてのディスカッションと祈りの時間として使った。そこで学んだのは、ヨハネ15章1節~19節であるが、この箇所は、ある意味、私たちの心の勘違いを指摘していると思う。
主イエスが、【あなた方はブドウの枝である】と仰るとき、それは、私たちが自分の力では生きてなどゆけない無力な存在であるということをはっきりと伝える言葉である。その意味するところは、私たちは、人間としていかに知恵にあふれていると思っても、いかに自分が正しいと思っても、そんな知恵や正しさなどは、まったく無意味で無力だということである。
その、無意味で無力な存在が、自分の心の思うままに、【神様、私の人生を祝福して、あれこれの願い事をかなえてください】と祈るとき、果たして、そのような(願いを、かなえてくださいという)祈りには、神の御前にあって、何か積極的な意味があるのだろうか。主イエスは、ヨハネの福音書15:7において、【何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます】と教えておられる。キリスト者はこの一節に飛びついて、自分たちの願望を次から次へと神に求めるかもしれない。その願いがかなえられたり、かなえられなかったりすることで一喜一憂するかもしれない。
・・・しかし、そのような、神を人間の願望をかなえる存在として見ている祈りは、逆に、人を不安定へと突き落とす。
主イエスが教えておられる祈りは、確かに、自分たちの望むものを神は与えてくださるのだという信仰に基づいている。しかし、問題は、人の側で一体何を求めて祈っているか、である。主イエスはその点について明確に教えておられる。私たちが心から望み、それを神から頂かなくては手に入らないのだから!という切実な求めをもって祈るべきことは、【あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら】という、主イエスの言葉と、主イエスの願いとに同調するべきものでなくてはならないのである。
すなわち、私たちが神に祈り求めるべきものは【私たちが主イエスにとどまり、主イエスの言葉が私たちの中にとどまること】であり、それは主イエスの掟(おきて)に従うことであり、そしてそれはすなわち、私たちがお互いを愛し合うことなのである。私たちは、私たちがお互いを愛し合う心を持つように、お互いを愛し合う行動をすることができるように、神に祈り求めるのである。それが、神が、私たちに望んでおられることなのである。
【神よ、私をお金持ちにしてください。】 そのような祈りには、神は応えてくださらない。神はそのような【自分だけを満足させるため】に人が口ずさむ祈りは、御前から忌むべきものとして退けられるとさえ言っても過言ではないだろう。
しかし、神が必ず聞いてくださる祈りがある。喜んでかなえてくださる私たちの願いがある。それは、【私たちが、お互いを愛するようになりたい。人を心から愛したい】という願いに基づく祈りと心の願いである。なぜなら、人の人に対する、【私は、主イエスがそうされたように、あなたを愛したい】というその心の願いは、主イエスが私たちにそそいでおられる御心そのものだからである。私たちが主イエスと同じ心を持ち、同じ行動をするとき、父なる神様は喜んでくださるのである。