善きサマリヤ人のたとえ話の序章となるルカ10:25-28 において起きている出来事は、主イエスと律法の専門家の間で交わされた有意義な議論では全くない。むしろ、律法の専門家は、『永遠のいのちを得るためにはどうするべきか?』と、あたかも人間と神との関係性について重要と万人が認める質問を投げかけつつ、実は、聖書の律法を駆使して、イエスの回答の言葉尻を捕えて批判し、そしてイエスの名誉を棄損するために議論を吹っ掛けられているのである。
律法の専門家は、さまざまな律法を次から次へと引用し、自分を正当化する議論を縦横無尽に展開することを生業としていた人だから、もし主イエスがまともにこの議論に応じてしまっていたなら、主の議論上の敗北は決定的だった。もちろんそれは、主イエスの論理が律法学者のそれより劣っているからでは無く、議論をする目的が全く異なっているという意味で、である。相手を論破して貶めよう者の議論は、その目的を、何が何でも、こじ付けでも、非論理的な手法でも、無理やりにでも、しかし理路整然と聞いている者が納得してしまうような表層をもって、達成するのである。それは人間の浅知恵と、それを聞いている人間の理解力の無さと愚かさによって達成してしまうのである。十字架の出来事は、その究極だと言えるだろう。
そんな律法の専門家に対して、主イエスは、彼自身の論理展開を最初から、『その通りです。それを実行しなさい。そうすれば命を得ます。』 と、すんなりと認めてしまっておられる。これは、この律法の専門家が、主イエスに挑戦しようとしていたことが初めから明らかにされていることを考えると、主イエスが、文字通り、『人の永遠のいのちは、神と隣人を愛することに依って得られるので、それを是非やってきなさい。みんなもそうしなさい』と教えておられるのではなく、むしろ、主イエスには、ここで、律法の専門家と議論する気さえない、一種の諦めに似た、『冷ややかな突き離し』が成されていると説教者は解釈する。なぜなら、律法の専門家は、パリサイ人と共に、神の彼らへの御心をすでに拒む決心をしてしまっている者たちだったからである(ルカ7:30)。
本来神の恵みを通してしか人が与えられることを望むことが出来ない『永遠のいのち』を、人間の側で何かをすることを通した条件付けによってどうやったら獲得できるのかと議論しようとするその心こそが、実は、神の律法の意味を真っ向から否定していたのである。律法学者は、律法を理解しているようで、まったくの盲目になってしまっていたのである。
・・・しかし、現代のキリスト者も、どういうわけか、『私が救われるためには、私は何をしたらよいですか・どんな条件を満たしていればよいですか』と、自他に問いかけようとすることを中々やめられない。そんなとき、聖書は、あたかも私達の肉体における努力を肯定するような声を発するかもしれない。しかし、それは、一種の聖書からの突き放しなのではなかろうか。・・・神の恵みに立ち返らなければ、聖書は理解できないのではないだろうか。