「・・・神を愛するなら、神の命令を守るはずだ。だから、私は神を喜ばせるために、キリストの命令を守るのだ。それが私の信仰である。キリストの命令を守らず、悪い行いをしている者は、キリストを愛していない。不信仰だ。」
そのように主張することは可能である。聖書から根拠を示して、その立場の正しさを主張することはできる。だから、上のように考えている人に対して、聖書から根拠を示して、考えを変えてもらおうと説得しようとするのは、まったく不毛である。本人は、心から、聖書に従い、神に仕えていると思っているからである。
しかし、「キリストの命令を守る」とは、本質的にどのようなことなのだろうか。
キリストが与えた言葉としての命令を実行に移すという事が、キリストの命令を守るという事だろうか。
キリストの「命令に従う」という事が、「人間が神に対して」どう行動するべきかという視点では無く、キリストが人間をどのような存在としてご覧になっておられ、その人間達に何をなさりたいと願っておられるかという、「神が人間に対して」何をなさろうとしておられるかという視点に立つ時、正しい行いとは何だろうか。
それは、キリストに愛される事。キリストの恵みを受ける事。キリストの赦しを教授する事。キリストの中で安息する事。
それでよいのではないか。
どうして、それ以上のことを義務として自分に課そうとするのか・・・。