<週報からの引用終わり>
一方で、使徒パウロは、エペソ人への手紙 2:15で、主イエスは、『規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました』と書いている。このような、主イエスがまるで律法を敵視してそれを破壊するために来られたと見える言葉に飛びついて、『新約の時代に生きるキリスト者は、律法は無視して良い。旧約聖書など関係ない。』と極端な考えに走る者がいる。しかし、その一方で、主イエスご本人は、マタイ5:18で、『はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 』 と語っておられる。この言葉に飛びついて、『キリスト者であっても、律法は順守しなければならない!ゆえに、神は同性愛者を憎む・裁く・地獄へ落とす!!』というこれまた極端な考えに走る者もいる。
この二つの聖書の言葉(あくまで例として)は、表面的には、明らかに矛盾している。そのため、人によっては、『使徒パウロは主イエスの教えを曲解して、キリストをないがしろにし、独自の神学を展開している。その教えに頼るクリスチャンは、むしろ、”パウロ教”の信者なのだ』 と批判する者もいる。
確かに。表面的には、矛盾している。・・・そう。表面的には。律法の一字一句、一点一画の記述について、それを、『規則と戒律』としてだけ捉えて、それを実行するか・しないかという二元的な『人間の行動論』として理解(あるいは実践)しようとするなら、パウロと主イエスの言葉は、矛盾する。しかし、その矛盾は、人間の、不信仰が原因となって生じてしまっているものではないかと思う。問題は、律法というものを、『行うか、行わないか』という人間の行いの問題に落とし込んでしまうところにあるのではなかろうか。
そもそも、一般的に考えて、法律や律法とは、規則を守るか守らないかを人間に問うために作られるのではない。そうではなく、『法』とは、何か目的があり、その目的を達成(成就)するための、人間の行動や相互の関係性の理想を具体化・制度化したものだ。その意味では、法律や律法には、人間社会や個人の理想の姿を実現したいという、それを制定した者たちの『切なる思い・願い』が込められている。・・・その意味では、『本当の意味で、心から、律法を完全に守る』ということは、その律法の規則や戒律を逐一行うことではなく、むしろ、その律法の中に込められている思い、願い、理想を追求する行動をするということなのではなかろうか。
そのように、人間側の二元的な行動論から一歩離れて、律法の思い・願い(スピリット)を守ろうとすることを追求する時、使徒パウロの教えとイエスのお言葉は矛盾しない。なぜなら、文脈を考慮すると、二人は同じものを目指しているからである。先ず、1)主イエスが仰っておられる 『律法の完成』 の具体的な形は、人間同士で、腹立ちや、侮辱や、争いがなく、お互いに赦し合い、和解して受け入れ合っている神の家族が形成されている姿だ。(マタイ5:21-26参照)また、2)使徒パウロが『律法の廃棄』と言っていることは、ユダヤ人と異邦人が同じ屋根の下で生活を共有する上で障害となる、ユダヤ人特有の習慣を規定した戒律(例えば食事に関する律法や、割礼の有無)が、キリスト者のコミュニティの中にはもう神の法律としては適用されず、その結果、異邦人とユダヤ人が和合した神の家族がそこに形成されるためである。律法の規定を通して、何が実現されようとしているのか、神が何をキリストの言葉と御存在を通して実現しようとしておられるのか、それに心を傾けて、自分の行いの正しさではなく、神の御心を追求するなら、『律法の成就』も、『律法の廃棄』も、実は同じ目標に向かっているということを、認め得るのである。
それを、人間の行動の二元論(律法を行うか・行わないか。正しいか・正しくないか)にしてしまうのは、ある意味、神の御心、すなわち、人類がお互いに融和し健やかであるようにとの、深いあわれみと愛を無視する、不信仰なのである。その不信仰が、パリサイ人が落ち込んだ過ちなのではなかろうか。律法を、行いとして追求した先にあるのは、神との敵対である。これは、『私たちは聖書を規範とする正統な教会です』と公言するキリスト者に対して、警鐘を鳴らしているように思えてならない。