私は熊本で地震の被害に遭われている方々のために祈った。支援のための募金活動にも参加させていただいた。しかし、私は、その活動や祈りの背後に、被災者の誰一人として生身の人間をリアルに見てはいない。自分が祈っているその人たちの顔と、名前と、その人の苦しみを、リアルに思い浮かべることが出来ないのだ。被災者の傍らに、寄り添えてはいないのだ。体温を感じない;体温を感じさせて差し上げることもできてはいない。私は、被災者の方々への援助に何らかの形で参加したとしても、実際に援助させていただいた、という実感が中々伴わないのである。(もちろん、伴っていなくても、援助は続けることには変わりないのだが)
つまり、『私は、被災者を援助することが何であるかを、まるっきりわかっていないのである。』
同じような意味で、私は、主イエスのことをまったく理解していないと思うのである。
私は、主イエスに『ついて』いろいろと語ることが出来る。しかし、主イエスの体温を肌で感じるほど、キリストを自分にとってリアルで、身近で、常に寄り添っていて下さる方として、また私の一日一日を共に歩んでいて下さる方として、感じていない面がある。そして、毎日の忙しさの中で、主イエスを感じようともしていない自分に、ふと気付く。
私は、主イエスに迫っていただかなくてはならない。迫られ、近くあって頂き、語って頂かなくてはならない。自分は、主イエスについて何かを知っていると思ったら、知るべきことも実は理解していないのである。そのリアルさが欠けているところに、私の信仰者としての問題があるのだと思う。使徒パウロが、自分を『キリストのしもべ』と呼ぶとき、彼は、主イエスをどこまでリアルなお方として感じていたのだろうか。私は、使徒パウロの信仰を過小評価しているのかも知れない。