<週報からの引用終わり>
キリスト者は、聖書を学び、『神を知っているという自負』の中に落ち込んでゆく危険と常に戦わなくてはならない。『神を知っている』という発言は、ある意味、神という御存在を、自分の知識、知恵、常識の、理性、経験則を総動員して描く一つの円(領域)の中に押し込めた結果として、人の口から発せられるからである。しかし、主イエスの福音は何を私たちに伝えるだろうか。
福音とは、主イエスがそのご生涯をかけて私たちに宣言してくださったメッセージである。主イエスは、そのご行動とご発言一つ一つを通して、私たちに何かを宣言しているのである。その宣言とは、父なる神の、私たちへのお心の体現である。キリスト者は、この意味で、『神を知っている』とは言うべきでなく、むしろ、『私は、キリストを見て、神と出会った』と、そして、『私は、キリストを通して、神がどのようなお方か、教えられ続けている』と言うべきであろう。
父なる神が如何なるお方なのか。私たちが知るべき神様のお心がなんであるのか、それは、私たち人間の知識、知恵、常識、理性、経験則で描かれる理想像や結論の中に決して納められないし、納めてはならない。むしろ、私たちは、主イエスをじっと見続けることを通して、神様のお心を示していただくことを切に求めて行くのが精一杯だし、それ以上のことを求められてはいないのである。いや、それが、神様が私たちに求めておられることなのである。
ヨハネの福音書 第6章 28~29節
そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
本質的なことを言うならば、キリスト者の使命、キリスト者がするべきことに関する神のみこころは、主イエスを見続けて、信じ続けて、父なる神の愛をより深く知ってゆくこと。それだけである。そのキリストを通して示された愛を土台としない、キリスト者が自らに課す様々な負担は取り除かれるべきである。取り除く勇気を持つべきである。神に愛されるだけでよい、そのスタンスを取る勇気を、持つべきである。