<週報からの引用終わり>
律法主義は不信仰だと断ずることはあまりに容易です。しかし、信仰を持つ人は特に、人間の「信仰心」は場合によっては律法主義的であるという事を知らなければならないと思います。要するに、「私は~したから、神様の前に正しいと認められている」という、神様の前にあって、自分自身を、自分自身が所有する何かによって支えようとする心や行いが律法主義なのですから。
自分がどれだけ神様の御前に正しい行いや信仰心を所有しているかを追求するのを止めて、むしろ、自分は神様に所有されている存在なのだという事の自覚を、神様にすべてをゆだねる信仰のなかに深められて行きたいと思うのです。
大人たちはポケットの中に様々な鍵を持っています。車のカギ、家のカギ、仕事場のカギ、物置のカギ、金庫のカギ、等々。しかし、大人たちに養われている子供たちは、鍵を持っていません。鍵を持っている大人に守られているから、自分ではカギを持ち歩く必要が無いのです。また、鍵をもって何かについて責任を持つほど賢くも無いからです。私達も、神様の御前にあっては、鍵など持たない幼子のようでありたいものです。