<週報からの引用終わり>
人間である私たちが、どうしても離れることのできない、一つの心の病がある。それは、前回も触れたが、人は、神様にそのすべてを依存して、神に生かされているのにもかかわらず、『神様を必要としないでも、自分は生きていけるのだ』と、自分の力で生き抜こうとする、一種の神の前にあっての傲慢の心である。
その考えと同一直線状にあると私が思うのが、『人間は、正しい行いをすることで、神の前に正しいと見なされる』という考えである。・・・これはすぐには受け入れられない言葉だと思うが、私たちは、本来、こう考えねばならない:『人間の正しい行いの有無は、人の、神の前の正しさとは、あまりにスケールが小さく、まったく関係ないと言わざるを得ない』と。
私たちが正しい行いをして義人となり、その義人としての立場を誇ってそこに安住することは、神様は望んでおられない。それは、神の前に正しい行いをしたという誇りの中に、神様を愛する心が消失してしまうからだ。・・・神様が私たちに望んでおられるのは、むしろ、私たち人間が神の前に真に正しく受け入れられる存在となるためには、その正しさを受けるために、すべてを神に依存しなければならないということを信じることだと思う。その時、神様は、イエス・キリストを通して私たちに義を与えてくださる。私たちを、主イエスを信じる信仰によって義と認めてくださる。それしか、私たちが義を獲得する手段は無いのである。
人間どうしで、誰がより正しいかを議論するのは、好きなだけやればよい。そこには勝敗さえ決められるような、誰かが誰かを完全に論破するような出来事もあるだろう。しかし、創造主であられる神様と、その御子イエスの御前に在っては、人間のすべての議論はやめられなければならない。それはすべて俗悪な無駄口となる。父と御子の御前に在っては、私たちを聖霊が支配し、そこには、私たちが主イエスキリストにすべてを明け渡し、完全に依存している姿が無くてはならない。
栄光、在主。