福音を理解する上で、神学的・人間学的にとても大切なことは、人間が救いを必要としている「原罪」の奴隷となってしまっているとは、いかなる状態なのかという事である。すなわち、人の罪とは、根本的に言えば、人が自ら「善と悪を知る知識を持っている」と前提して、その前提から自らの善悪を論じようとするその心にあるという事である。
人間が「あれは悪い行いだ」と思うことをするから人は罪びとなのではない。逆に、人が「あれは善い事だ」と認めるような行いが成されるところであっても、それが人間の誇りとなる自己中心的な、神不在の、罪から来る行いであることも同等にあり得るのである。
人が原罪から解放され、そして救われることの意味とは、根本的に言えば、それはあの「エデンの園」の中で、神の絶対的な愛と恵みと祝福に包まれながら、神の力によって生かされる状態への回帰であり、その状態に戻るためには、人は、神からの一方的な恵みと、罪の赦しと、超自然的な人間の存在の根本からの新生を必要としているのである。その、神にしか満たし得ない人間の必要を満たそうとしておられるのが、主イエスの誕生であり、十字架であり、復活であり、聖霊の派遣なのである。人の救いの十全性は、神の恵みに基づく御業の十全性にすべてがかかっているのである。
神の救いの十全性に信頼する者は、父なる神から、子どもとしての恵みの言葉を聞く。『あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 』(ガラテヤ4:6-7) とパウロが宣言する通りである。
そして、神の子として歩む者は、その人の中に、神が、その子に相応しい行いや心の思いを(人が思い描く理想やタイミングではなく)神が準備しておられる時と場所と状況において、確実に与えて下さるのである。人は、自分がどんな善い事をして神を喜ばせるかと考える責任を追ってはいない。むしろ、神に子として喜ばれている自分を喜び、神が望まれる善い行いを神が自らの中に生み出すことを体験しながら、ただ、ただ、神を賛美するのみである。・・・それでいいでは無いか。なぜ、それ以上の何かを望もうとするのか。