<週報からの引用終わり>
福音とは、よき知らせという意味であり、それは人がその口を通して人に伝え知らせるものである。その意味で、人が伝える福音の言葉は、それを伝えようとする側の人間本人が有している常識や良識、価値観や世界観に色濃く影響されてしまうことは避けられない。そしてその言葉は、それを聞く側の人間本人が同じように有している、常識・良識・価値観・世界観を通して理解される。
その意味では、「福音の言葉」と一言で言っても、それは、神の言葉として全く純粋で、少しの間違いも無く正確で、神の言葉として力強く、そして美しい音色として、人の心にインパクトを与えるような言葉とはなり得ない。神の言葉が、人間の知性とその限界、感情の強さと弱さ、そして、何より「罪」という問題によって幾重にも歪(ひずみ:ディストーション)を加えられ歪曲された真理の理解としてしか伝わり得ないのが、実は福音ではないだろうか。
そして、その歪曲や歪みを含んだ福音が、時に「繁栄の神学:Prosperity Gospel」と呼ばれることのある、福音を信じることに依って信者は神に祝福されて物質的に豊かになれるという考えとなる。しかしそれと同時に、キリスト者であり続ける目的が、人間的・具体的な行動の矯正や意識の改革を促されて行くことであると考え、つまるところ、信仰とは根本的には「自己改善」であると考えてしまうのであれば、それは本質的に、「信じることに依って、私にメリットがもたらされる」と考える、繁栄の神学と同じ思想へと陥ってしまうことになるのではないだろうか。
主イエスの力は、人間的な目標設定の中には働かない。聖霊の力は、その人の死の中に、無力の中に働く。その神への依存に徹することが出来ないのは、強者であることが良いことだと思い込んでいるからではないだろうか。「自らの向上」というドリームを捨てきれずにいるからではないだろうか。それが、福音の言葉からディストーションを除いてゆくことにつながるのではないだろうか・・・。
福音の正確さは、人間の精神的な神の御前にあっての「無力の自覚」と「無力の実践」の度合いと正比例するだろう。だとすれば、アメリカンドリームと称される、自己の努力と勤勉による成功を美徳とする精神性から発せられた福音の言葉は、どこか根本的に歪んだものにならざるを得ない。