「偽善でもいいじゃん。何もしないよりもマシ」 というのは、タレントの島田紳助さんの言葉だそうである。(引用:http://www.herawata.com/entry/2017/08/10/080000)この言葉は、眼の前にある誰かの切実な必要に対して慈善活動を通して働きかけて欲しいと呼びかけている訳ですが、ここで意味されている「偽善」とは、「悪い心や動機に基づいて、善い事をする」ということです。どんな動機であろうとも、とにかく善い事をするべきだ。人を助けるべきだ。という人間のするべき行動についての原則のことを語っている訳です。
これに対して、主イエスは、むしろパリサイ人たちを批判することに依って何を意味していたかと言うと、「悪い心や動機があるのに、それを善い行いで隠そうとするのは止めよ」という、善行の停止命令であると考えられます。「善行にいそしむ前に、その動機がどこにあるのか、よくよく吟味せよ。そうしないと、神の御前にあってはその人に災いが来てしまう。」という事です。
上記の引用で、島田紳助さんは、あくまで、助けられるべき人たちに助けが成されることが大切と言っていて、助けられる人たちには良い結果がもたらされる訳ですから、それは善い事だと言えるでしょう。しかし、悪い動機で善い事をすることによって、その人の悪い心が正当化され、その人が依然として悪いままの状態にとどまってしまうとしたら、それは(善行によって助けられる人ではなく)その人本人にとっては、害悪を及ぼすことになってしまうでしょう。
主イエスは一人ひとりの神の御前にあっての心の在り方を心配し、善い心を持ってほしいと願っておられるのではないでしょうか。そのためには、時に、人は、(もしそれが偽善に基づいているなら)善行を止めなければならないのです。それは、その善行を止めることで誰かが困ってしまうかも知れないという心配を生じさせるかもしれませんが、本当に人を助けるのは神ご自身なのですから、善行の任務は、神にお任せして良い筈なのです。
そして、私達が神の御前にへりくだり、聖霊を与えられるとき、その聖霊が、私達の中に善行を生み出してゆくでしょう。その善行は、もう、私の善行ではなく、神の善行であり、それは偽善ではなく、まさしく善となるのでしょう。キリスト者は、自ら善行を行おうとする心を制して停止させて初めて善を行うこことが出来ると言えるのではないでしょうか。