キリスト者が自分自身と神との関係性について表現する時にしばしば見られるパターンは、自分たちを、(この画像の中に置き)主に抱かれている子供達として位置づけ、無力である自分たちの背後には、権威と力ある神がおられるので、何も恐れるものは無いという立場に立ち、その権威と力ある立場から、自分の外にいる環境の影響を過小評価したり、罪びとたちを裁こうとする姿勢である。その思考パターンや姿勢の善悪はさておき、本記事で提案したいのは、もう一つのパースペクティブ(視点)である。
それは、主イエスが自分の『外』に立ち、自分の(常識や倫理の)外で、自分自身が罪びとだと決め込んで除外し、嫌い、避けようと思っている(自分の目には)俗悪だと思える人たちの、まさに傍らに居られ、その人たちを愛し、受け入れておられる、という真実を見るという事である。つまり、キリスト者が、『あんな人は、救われるはずがない。』とか、『あんな人は許せるはずがない』とか思っている人を一人思い浮かべる時、その一人の人は、上の画像の子供の一人なのである。キリスト者として、その一人の人を、裁き拒絶することが、主の御前で出来るだろうか・・・。
そういう自己吟味を迫るのが、この一枚の絵なのではなかろうか。