37:人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 38:すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 (新共同訳)
確かに、この箇所では人が神の前になすべきことはなんであるかについて、はっきりと書いてある。①悔い改めて、②洗礼(バプテスマ)を受け、③罪を赦していただくことである。したがって、悔い改めてバプテスマを受けないでは、人の罪は赦されない、したがって、バプテスマなしには人は救われない、という論理展開が成され、救いにはバプテスマが必須である、すなわち人の行いが必要である、という結論になる訳である。
しかしそのように主張し、依然として「自分は神の御前に救われるために、何かをする必要がある」と考えている人は、大切な何かを見落としている。それは、「わたしたちはどうすればよいのですか」という問いを誘発した、人間が置かれた状況についての考察と、聖書の御言葉の中への感情移入(没入)の努力である。
それは、使徒行伝2:36に対する、魂の応答である。
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(新共同訳)
悔い改めてバプテスマを受けよと命令したペテロは、自分自身を含めてすべてのユダヤ人をイスラエルの全家と呼び、そしてその民イスラエルが総体として神に反逆し続け、ついに、とうとう、神の御子イエスさえ十字架に付けて殺してしまったという驚愕の、神に対しては決して赦されない、即刻死刑判決を宣告されても一言も反論も弁証もできないような犯罪の事実を人類に突き付けているのである。
そして、その人間が如何なる弁償を行っても、罪滅ぼしをしようとしても、善行を積み重ねても、神の命令のいくつかを忠実に守り通したとしても、そのようなことでは決して拭い去れない、帳消しに等なり得ない、そのような重大極まりない罪を神の前に犯したことを知らされた人の心が刺し通され、絶望したとき、その絶望の中に初めて魂の奥底から絞り出され、いや、湧き出した悔い改めの心が、「どうしたらよいでしょうか!」という問いなのである。
つまり、この「わたしたちはどうしたらよいでしょうか」という一言は、文字通り、人が如何なる行動をすれば神に認められ救われるのか?という事を実は問題とはしていないのである。むしろ、この一言は、神の御前には何もできない、何をしても救われないという絶望の中から、神のみ名を呼び求める、神への救いの嘆願なのである。
そして、ペテロは民に応えるのである。
「だからこそ、民よ、兄弟たちよ、一緒に神の御前に悔い改めよう。そして神にバプテスマを授けて頂き、罪を赦して頂こう。なぜなら、神様はその恵みによって私達の罪を赦し、その証として聖霊をも賜って下さるのだから。神の恵みに信頼して、さぁ、今、神のみもとにに行こう!」
・・・この聖書箇所に対して、人間がどのように行動すれば救われるのかという、「人間主体」の問いかけを最初から持ち込んで解釈しようとするのは、自分自身の神の御前に在っての罪びととしての人間理解、そして人の救いが神の恵みを必要としている、いや、神の恵みによってしか救われ得ないという福音の理解が不十分であるからだと、私には思えるのである。