初代教会の礼拝は、「信じた者たちは…毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していた…。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださった」というような、はつらつとした喜びにあふれた出来事だった。(使徒2:44-47 教会共同訳)
礼拝とは、神の聖霊に満たされた者たちが、聖霊に促されて、喜び、集まり、交わり、神に感謝と賛美をささげるという、聖霊の力があふれる共同体の姿である。教会が礼拝を「守る」ということは、定例の決まった形式での行事の実施を死守することではなく、むしろ、あらゆる形式の中にあって、神が聖霊を通して祝福を与えてくださる、聖霊がもたらす神の出来事である。私たちの礼拝は、私たちが神の御前に死守するものではなく、神が私たちのためにキリストの十字架と復活、そして内住の聖霊のはたらきによって死守してくださっておられる、神の祝福なのではないだろうか。