
<週報からの引用終わり>
『信じる』ということは、思考を停止させた妄信であってはならない。
この映画のクライマックスでは、元教師マクラウドと、少年チャックの信頼関係と友情が、決定的に揺るがされる出来事が起きる。偏見によってマクラウドが児童虐待の疑いをかけられ、チャックへの接近禁止命令が保安官から出てしまうのである。少年チャックは、マクラウドを師として慕う気持ちと、大人たちが吹き込んだ疑念の間で苦悩する。その苦悩から脱出するために、マクラウドに、はっきりとした答えを求めるのである。
しかし、マクラウドは、チャックが求めるYES/NOという答えを与えることでは、そんな理屈を通してでは、彼らの間の友情と絆は回復しないと見抜いていた。それは、心の底に植え付けられた疑念は、客観的な基準や情報によっては払しょくできないからである。心の底から誰かに与える絆と友情は、相手に対する心からの信頼によってしか生まれない。弟子が、YES/NOという次元で考えている間は、決して教えることができない、深い心の教えがあるのである。
チャックに対して心の決心を促すために、マクラウドは『今までの体験を思い出して、自分に虐待されたことが一度でもあったかどうか、友情以外の手で彼に触れたことが一度でもあったかどうかを考えろ、考えて結論を出して、自分を信頼できるかどうか決めろ』、と求めるのである。・・・チャックは、そう迫られ、思い出し、考え、信じて、マクラウドとの絆を取り戻すことを心で決めるのである。その決心は、もう誰がマクラウドについて何を言おうとも揺るがない、深い絆となった。
この絆は、マクラウドの真の潔白の事実と、チャックの考える心が合わさった結果である。どちらが欠けても、この絆は成り立たなかったはずである。私たちの主イエスを信ずる信仰も同じではなかろうか。
主イエスは、私たちの前に、恵み以外の何も私たちに示されず、私たちを痛めつけるような発言やご行動を一切することなく、私たちの病に触れて癒し、私たちの罪のために死んで下さったという潔白な愛の事実がある。その事実を私たちは思い出し、考え、そして主イエスを信頼して主との絆を求めるかどうか、考えて、心で決めなくてはならない。もし、私たちが心に決めるなら、そこに主イエスと私たちの深い絆が生まれるのである。
信仰とは、何も考えずに信じることでは無い。主イエスのご行動と、み言葉を心に蓄え、それを反芻し、吟味し、考え、否定したり、疑うことさえして、それでおもなお、イエスを神の子として信頼できると人の心が結論するとき、そこに、本当の信仰が生まれる。信仰とは、そのような心からの信頼に基づく、私たちと主イエスとの絆なのである。
・・・ちなみに、メル・ギブソンはクリスチャンである。