
車のエンジンも、
フル回転させて負荷をかけ過ぎると壊れる。
オーバーヒートした位なら、
エンジンを止めて冷やせば良いが、
場合によっては
金属の部品がエンジン内部で破損し、
エンジンが物理的に破壊されて
再起不能になることがある。
人間の体と精神は、
機械(Machine)ではないが、
機械的(Mechanical)な面を持っている。
その機械的な面を無視して
無理をすると、
機械的に壊れてしまう。
つまり、機能停止してしまう。
人体はエネルギーを摂取し、
それを消費して筋肉を動かし、
いろいろなボディ・ケミカル(体内の化学物質)が
バランスを取りながら機能している。
このバランスが、
ストレスやその他の要因によって崩れると、
人間は調子が悪くなり、
無理をし過ぎると壊れてしまう。
一般的に言って、
人間には作業ののキャパシティ
(Capacity; キャパ; 許容量)というのがあり
そのキャパを超えると
極端に仕事の効率が落ちる。
効率が落ちるからさらに頑張る必要が出て、
その結果キャパをさらにオーバーしてしまい、
さらに効率が落ちるという悪循環に陥ってゆく。
筆者は、
以前の職場において同様の経験がある。
その時は上司が
「休まないと、クビにする。休め!」と
強制的に数日間休暇を取らされた。
ありがたい上司であった。
しかし、
自分の限界を知って、
その限界を超え過ぎないように自分を
いたわることは必要だ。
時には限界越えの努力をする必要があるが、
その無理な状態を維持してそれが普通になってはいけない。
壊れてしまうから。
それはそうと、
教会という集まりを一つの体とする場合、
教会が無理をし過ぎて
壊れてしまう危険もあるのではないか。
過剰なストレスと休みの無さ、
「教会っぽい」イベントの企画の立て過ぎによる、
内部の物理的な疲労と、
「やらなければならない」という強迫観念による精神的な疲弊。
その疲労と疲弊が普通(ノーマル)になってしまってはいけない。
壊れるから。
負担が悪い訳ではない。
ストレスが無い世界を望んでいるわけではない。
何も伝統を持たない教会を目指しているわけでもない。
しかし、
自分(たち)がやっていることに喜びを感じられなくなったとき、
それは一度立ち止まって休み、
自分の体と心、
そして神様との関係性としての霊的な状態を見て、
自分自身をいたわることをするべき時なのではないかと思う。
ある意味、
教会という集まりの中にあっては、
一人ひとりが立ち止まり、
神の前に「休む」自由を決して奪ってはならない。
その自由が奪われたとき、
それは個々の心に小さなひび割れを起こさせ、
そのひび割れは群れ全体に亀裂となって現れて
しまうのではないか。
いずれにせよ、
教会であれ、会社であれ、個人であれ、
自分自身を含めた「人間」は、
無理を強い続けると心身共に傷つき、
下手をすると壊れてしまう存在。
それを知ったうえで、自分と他者をいたわり、
大切に扱おうとする、
一種の勇気が必要なのではないだろうかと
このクリスマスの季節を終えて、考えている。