仮に、ある夫婦にひとり息子がいたとする。彼は生前、慈善団体への定期的な寄付を約束していた。しかし彼は死んでしまった。両親はその慈善団体に息子の死を知らせ、今後寄付は継続できないと伝えたが、その団体から振込用紙が死んだ息子宛てに送られ続けた。何度連絡しても状況は変わらず、とうとう耐え切れなくなった両親は、怒りに震える声で訴えた。「どうして息子に寄付を要求し続けるのか。もう死んでしまっているのに!」と。しかし、その団体は無慈悲にもこう言い張った。「生きている間に寄付の責任を負ったのだから、死んだ後も、その責任がある。我々の要求は正当だ」。
パウロはこう教える:「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません(ガラテヤ2:19-20)」。キリストを信じるとは、自分も神の御前に死んでいると信じることである。その死んでいる人に、「あなたは生きている(のと同じ)だから、神の前に正しく生きる努力を支払う責任がある」と要求するのは正当だろうか。むしろ、そのような要求は、死者への冒涜、負えない責任の強要、十字架の拒絶ではないだろうか。