ペトロは、かつて三度に渡って主イエスを否認した。「3」とは象徴的に「完全」を意味する。ペテロは全力で、全人格で、完全に主イエスを否んだ。それがペテロの、私たちの、罪びととしての姿だ。しかし主イエスは、十字架と復活の神の力をもってペテロを、私たちを訪れ、神の言葉を息吹いてくださる。罪の赦しと愛を心に注いでくださる。「あなたは私を愛しているか?」と。私たちも、ペテロのように答える。自分の絶望の中から、告白する。「主よ、あなたは知っておられます。」
十字架で死んで私の罪を滅ぼし、復活して私に新しい命を与えてくださるキリストの御前では、私は、神を愛する根拠をもう自分に置くことはできない。キリストのために自分が生きる必要はもうない。むしろ、キリストが自分のすべてを生きて、永遠に生き続けてくださることを私は信じる。私が神を愛することは、主が、もうすでに、すべて、ご存じのことなのである。だからこそ、私は愛するのである。