創世記 第8章 21節に、神様が愛してくださった人類の心について、神様はこう仰せられている:『人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。(それでも私は彼らを養い、あわれみ、そして救う)』
そもそも、罪にまみれて、どこをどうひっくり返したところで、初めから悪いことを考えてしまうような、罪びととしての人の心を『清める』ことができるのは、神様ご本人でしかありえない。キリストの十字架の死でしかありえない。福音が、あるいは広い意味では聖書が伝えるところの『人の心が清められる』こととは、それは、創世の時にまでさかのぼって、人という存在が神様の御前にあって、再び、価値のある存在として、罪のない存在として、どこをどう切っても神様に喜ばれる存在として、今までの自分に死んで、神様に新しく創造していただくことを意味しているのではないだろうか。
そのような、人間の実存のすべてを一旦廃棄し、そして全く新しく造り替えられるという、主体者を神様とする新生の出来事を、人間が、音楽を聞いたり雰囲気を味わったりすることで『心が清められた』と考えることは、そもそも、清められるべき対象と、その清めということの意味をどう理解するかにおいて、『キリストの福音』と『一般常識』が、いかに激しくかけ離れているかを示している。・・・つまり、一般の人々が、教会でクリスマスを味わうとき、そこに自分の心が清められるような気分に浸って、それで満足して帰ってしまうなら、クリスマスを祝う中で、実は福音が伝えられていないということになりはしないか。福音が、人の一般常識を覆すような、本来の力をもって語られていない。・・・ということになりはしないか。
でも、そのような、福音とは関係ないようなキリスト教についての『一般常識的な心の清め』を世に広めてしまったのは、だれに責任があるのか・・・。