その思いは、神様の愛について、何か理論的に、神学的に、倫理的に説明を施して、『これこそ神の愛なり!』と満足してしまおうとする心にブレーキをかける。ブレーキをかけて、立ち止まらせ、そして振り返らせる。振り返った先に見えるのは、大宇宙を見上げるような、深淵な暗闇と、呑まれてしまうような広さと、まばゆいばかりの星々の輝き・・・。もっと先がある。もっと広さがある。もっと何かがある。求め続けても到達できず、到達できずとも求めずにはいられない。そのような追求の対象としての神の愛。人間のあれこれの追求の努力を、いともたやすくご破算にし、粉々に打ち砕き、吹き飛ばしてしまうほどの破壊力。それでもなお、人を立ち上がらせ、新しい命を吹き込み、ご自身の愛を追求させる力を満たして下さるお方の恵みの力。それが神の愛。
そこには、もう、『人が神を愛そうとする努力』が無意味に感じられてしまうほど、『人を愛される神』が主権者として君臨されるだけの世界がある・・・はずだ。そのような愛を、私はどう表現したらよいのだろう。
使徒パウロは、ローマ人への手紙9:11において、こう綴っている:
『・・・その子供たち(ヤコブとエサウ)は、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召して下さる方によるようにと・・・』
神は、人間が何か良いか行いをしたから愛するのではない。また、何か悪い行いをしたから愛さないのではない。神の、人間への、いや私自身への愛、そしてあなた(このブログの読者の方)への愛は、神が『わたしは、あなたを、何が何でも愛するのだ。』と選ばれた故に注がれているのであって、その選びの計画の確かさは、ヤコブとエサウの時代よりもずっと前に、すでに神のお心の中に確立していたと、そう信じてよいのである。
神の、私たち一人ひとりへの愛は、この世界と時代にあっての私たちの(物理的)存在よりもずっと古い。私たちは、私たちが存在さえしなかった、人間の認識を超えた古の時代に、すで神に愛されていたということになる。私たちがこの肉体において理解できる自分自身の存在が、私たちの存在のすべてではない・・・ということになる。 私たちは、本当には、神様の御前にあって、一体どのような存在なのだろうか・・・。