
人によっては、礼拝を再開しなければならないという義務感、先人たちへの義理、あるいは、今まで決して認められなかったけれど、実は礼拝が辛かったという“我慢”や“頑張り”に気づくかもしれない。そして問う。この休止期間が明けたとき、再度、自分は、義務感や、義理や、我慢や頑張りを続けるために、礼拝に集うのか?と。それは礼拝なのか?と。それになんの益があるのか?と。
あるいは、私たちは、ともに集まって祈り、賛美し、聖書のことばに聞くできごとの中に、神がご自身の恵みをお語りになることを通して、自分の心が満たされ喜ぶという、自分の霊性に気付くかもしれない。個々が再度礼拝に集まるとき、それは、聖霊に導かれた共同体の中に神がお立ちになり、その言葉が私たちの心を新しく作り変えてゆく喜びの時となる。礼拝が、新しく、そこに生まれる。