人は、どんなに労苦しても何の喜びも無いと感じられるような、辛い責任を課せられることがある。その辛さが長い間続くと、「どうしてこうなったのだろう?」と自問し、苦しみから解放されて喜び楽しんでいる自分を想像さえできなくなってしまう。虐げられている自分が、自分の「普通」になってしまう。
罪の力は、アダム以来、七千年に渡って人類を虐げて続けてきた。悪魔は訴え続ける:「お前は、自分の力で神と人から愛される外見を整え、自分の力で神と人を愛せよ!」と。「お前は神と人の前で、恥ずべき存在なのだから、自分で自分の恥を隠せ!」と。…人は、この悪魔の執拗な訴えによって身も心も虐待され、瀕死の状態だ。それにも関わらず、それが、人間の「普通」になってしまっている。
神は、主イエスの十字架と復活の御業によって、罪に虐げられている「古い人」を滅ぼし、逆に、神にもう愛されていることが「普通」となるような、「新しい人」を私たちに着せてくださった。この「新しい人」は、神を愛し神に愛されるための努力をやめてしまう。ただ、無条件に愛してくださる神の愛を信じ、神の懐の中で愛され、神の足元で愛の御声を聞き、神を喜び楽しみ、愛しているのである。