<週報からの引用終わり>
上に、「人は誰か別の人を喜ばせることが出来ると信じている」と書いた。それは、人が人を喜ばせる事なんかできないと言いたいわけでは無く、ただ、自分が誰かを喜ばせることが出来たと思ったとしても、それは、自分の思い込みかも知れないし、結局は、自分がそうできたと信じているからそうなのであって、相手の心の喜びについて断定などできないという事である。相手は本当に喜んでいるかも知れないし、喜んでいるふりをしているだけかもしれない。その喜んでいるふりをしている本人も、自分がそういう「ふり」をしている事さえ気づいていないかも知れない・・・そういう事である。
神を心から喜ばせるには、神の心を理解しなければならない。神を「真に」喜ばせるには、神の心を「まことに」理解しなければならない。その意味で、人間が自信満々で「私は神を喜ばせた」と言うのは、「私は神の心を理解した!」と豪語しているのである。本当に神を喜ばせることがお出来になるお方は、神ご本人だけである。人間が神を喜ばせることが出来たとしたら、それは神ご本人の御業がその人の中に働き、神ご本人の御業がその人の行動となった場合だけである。
それは聖霊の働きであり、人の働きでは無い。
人は、むやみやたらに、「神の御心に沿って~をした」、とか、「神を喜ばせるために~をするべきだ」とか、言うべきではない。そういう風に、自分や他者の行動の良し悪しを論ずるために、神の御名をめったやたらに引用するべきではないのである。