「その時、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『私たちとファリサイ派の人々はよく断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った。5:すると、イエスは言われた。『花婿が一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか。…』」(聖書協会共同訳,2018)
聖書辞典によれば、断食とは、「肉体的苦痛を通して、深い罪の自覚と恐れをもって神に近づく者の熱心な祈りと悔い改めを表現して」います。断食とは、神に近づくことを全人格的に求める行いとして、例えばファリサイ人は週に2度断食し、自分が神に近い者であることを人と神の前で示そうとした訳です。(ルカ18:12)。
しかし、主イエスにあっては、人はこのような理由で断食する必要がありません。なぜなら、キリストが共に居てくださるならば、私たちが断食して神に近づこうとする前に、すでに神が近くに来てくださり、一人ひとりの心に宿って下さるからです。私たちが自覚できない罪をも、すでに主イエスが十字架で処理していてくださり、また、私たちが悔い改める前に、すでに聖霊が神の力を働かせて、私たちを根本から変革し、真の悔い改めを日々実現していてくださるからです。
だから、主イエスにあっては、私たちは、ひたすら、キリストの十字架を通して示された神の愛を受け、感謝し、聖霊が私たちの心に湧きあがらせて下さる喜びの中に生きるだけでよいのです。いえ、むしろ、その聖霊によって生きる喜びしか、私たちに生きる道はないのです。