「パウロ先生の理屈っぽい頭と、議論には、まったくウンザリせざるを得ない。理屈っぽい頭の所有者である私は、このパウロの理屈が嫌で嫌で、一時ローマ書は決して読むまいと決心したことすらあった。しかしパウロの理屈は、理屈のための理屈ではない。彼が有する生命を説明するための理屈である。生命が先であって、理屈は後である。ゆえにパウロと同じ生命をもつ者には、パウロの理屈はなんでもなく解る。」 (下線は伝道者による追加)
私たちは、パウロの書簡を読む時、パウロと同じ信仰をもっているだろうか。パウロは、自力で神の命令(律法)を守る能力については、自分は(キリストの十字架によって)死んだと宣言した。パウロにとっての自分の生命とは、唯、復活のキリストの力だけであった。(ガラテヤ5:19-21参照)そんなパウロが教会に望むことは、神の命令を守る頑張りではあり得ない。むしろ、キリストの十字架と結ばれて死者とされ、共に神の恵みの中に立たされながら、聖霊を通して神の愛を心にあふれるように注がれて生きる喜びを、パウロは私たちと共有したいと願ったのではないか。私たちは、自力で神に従って神に喜ばれると信じているうちは、パウロの教えを何一つ正確に理解できない律法主義者として、十字架と敵対しながら、聖書を曲解し続けるのみである。それは苦しく望みのない道である。