<週報からの引用終わり>
主イエスが『敵を愛しなさい』と命令されることを心から実行できるとすれば、それは、今まで敵とみなしていた相手を、敵としてではなく、愛するべき対象として見るように自分自身の心が変えられる他にない。その心の変革は、自分自身の心を神様が愛で満たしてくださることによってのみ、可能となる。
だからと言って、これは、人が自分勝手に『私は神の心で満たされた。だから、私の意見は正しいのだ!』と自己主張することを正当化する理由にされてはならない。主イエスは、私たちをどのように神が満たし、その結果、私たちがどのように変えられてゆくかについて、非常に限定的に、狭く定義している。それは、神が私たち一人ひとりに憐み深いように、私たちも他者に憐れみ深くあるということである。
その意味では、キリスト者は、戦争、社会的制裁、あるいは正当防衛など、何らかの形で他者の命を害する行為を、『それは神の御名によってなされたことだ』などと、口が裂けても言うべきではない。人が人を殺害するのは、人が自分自身と、自分自身の生活を支えている社会のシステムを守ろうとして行うことである。それは人間の弱さゆえにやむを得ず生じてしまうことであって、それを神様が積極的に望んでいる訳では無いと私は、思う。
人は他者を見る時、そこに様々な心の壁を建て、敵と味方に分かれる。
しかし、神は人を見る時、そこにいつくしむべき愛する存在をご覧になる。
人が神の御名によってできる行為は、憐みと、慈しみと、愛の行為のみである。