「聖書は神のことばである」と言っても、その意味は二通りあり得る。すなわち:
- 聖書が客観的な権威として私の「外」に君臨し、私を裁く律法として恐怖される場合。
- 若しくは聖書が私の内に天から放たれた神の愛となって、神の力を発揮する場合。
前者は聖書を外的な規定として自分に適用するが、結局は神に従えない罪を明らかにするだけである。しかし後者は内住の聖霊なる神との対話を期待し、結局は罪人として滅んでいる私の内にさえ生きて下さるキリストの愛との出会いの可能性を開く。
「聖書は神の言葉である」と言っても、それは、律法主義的な終わりのない努力と疲れと絶望か、それとも、キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊との交わりという終わりのない溢れる喜びか、真逆の意味を持ち得るのである。