これを理解した上で、私たちは自分に問わなければならない。「私は、自分の力で、神と人を、神の水準で、愛せるか?」と。これに「はい」と答える人は、自分を誇り、自分を神とするのである。しかし、自らの「罪」のゆえに、人と神を愛せない自分を認め、その罪びととしての自分の邪悪さに身震いするとき、「キリストが私の内に生きておられる」ことが、唯一の希望だと悟るだろう。
十字架と復活を通してご自身を私たちにお与えになったキリストご自身が、私の代わりに私を生きて下さることが、私が誰かを真に愛する唯一の方法なのである。神と人とを愛するとは、自分の意志や努力では不可能だ。むしろ、内に働く愛なる神の、聖霊を通した神の業だけが、神が承認する愛なのである。信仰者の努力とは、この神の業を断固として信じ続ける信仰である。