新年を1月1日に祝う。
ユダヤ人のカレンダーでは、
これと異なる。
Wikipedia参照
ユダヤ暦は太陰暦(月の満ち欠けに基づく暦)で、
新年の最初の月は「ニサン:Nisan」の月と呼び、
これはグレゴリオ暦では4月ごろである。
この「ニサンの月」の14日目~21日目が、
過ぎ越しの祭り(Passover)である。
主イエスは、
この過ぎ越しの祭りの最中に
エルサレムで十字架にかかられ、
復活されたのである。
このため、イースター(復活祭)は4月ごろである。
この過ぎ越しの祭りの50日後に開かれる祭りが
「五旬節」、または「ペンテコステ」である。
このペンテコステの時期に、
弟子たちは聖霊から力を受けて、
主イエスの福音伝道を継承したのである。
***
ユダヤ人中心の初代のキリスト教会が、
その新年において記憶したであろうことは、
ニサンの月に起こったこと、
すなわち、
主イエスの死と復活のことであったのかも知れない。
復活された主は、
弟子たちに、様々なな場所で、
彼らが居たそれぞれの場所に現れて、
一度、散り散りになってしまった彼らを
再び呼び集められた。
そして呼び集められた弟子たちは、
50日の間でエルサレムで主イエスに聞き、
そしてひっそりと身を潜めて、
聖霊を待ち望む。
1月1日、そしてこの新年の月。
キリスト者は、何をするべきか。
新年を祝って、
自分自身と教会の力を信じて、
力強い歩みを期待するべきか。
・・・それは間違いかも知れない。
新年にあたって、
私が考えるべきことは、
主イエスの死と復活に思いを寄せ、
主イエスに聞き、
ひっそりと、神様のみもとで息をひそめ、
聖霊から力を受けることを期待して
静かに「待つ」ことかもしれない。
大きな変化の前には
静けさがある。
いや、静かに時を待つことが無ければ、
大きな変化は実現しないのかもしれない。
2016年度がどのような年になるか、
私にはわからないが、
主イエスに聞き、
神の前に静かにたたずむことを
忘れないようにしたいと思う。
自分自身の力で成し遂げられることなど、
最初からたかが知れているのだから。