<週報からの引用終わり>
使徒パウロは、ガラテヤ2:20で、「私はキリストと共に十字架にかけられた。もはや私が生きているのではない」と宣言している。それは、人間としての自分は死んだとパウロが自分のことを認識しているということ。その、パウロが言うところの自分の死の認識を、今まで私はかなり軽く見ていたと思わされている。主イエスの復活の力に生きる自分という存在の認識の深さは、自分自身が死んでいるという認識の深さに正比例する。どこまで、パウロは、自分自身を死人として認識していたのだろうか・・・。私たちが、使徒パウロの言葉を、本当に、私たちが、現実に私たちの身の周りで死んでしまった召天者に対して認識するように、「今やキリストの復活の力によって生かされている、人間的には死んだ存在の言葉」として意識して、意図的に聞こうとするとき、そこから得られる理解は、かなり違ってくると思う。
つまりこういうこと。パウロの側で「自分は死者である」という、人間的には全く無力な立場から語られた言葉を、私たちが本当の意味で受け止めようとするなら、それは、聞く側においても同様に、「自分は人間的に無力である」という立場を出発点として、「神に全面的により頼んでいる者」として聞かれなければならない、と言うことである。
その割には、私たち教会やキリスト者は、自分の正しさを追求してみたり、自分の計画の遂行を目的としてその正当性を聖書から証明しようとして見たり、自分をより美しく、強く、偉大な存在へと高めようとして、パウロの言葉や聖書の言葉から何か役に立つ教えを聞こうとする。しかし、そのような態度は、聖書の理解においては、誤解を生むばかりなのでは無いか?と思うのである。
今回、聖書の読み方の根本的な見直しを迫られているように思わされた。天に召された死者の言葉は、力強く私たちの心をえぐるのだと思う。