
あなたが、「神様に罪を赦され、救われるための条件」として、自分自身ではそれをクリアしていると思っている事を一つ心の中で思い浮かべ、空欄を埋めてください。
⇒ 私は、 している/したので、罪赦され、救われています。
Fill in the blank (in your mind) below with whatever you believe as the necessary condition of your salvation and forgiveness of your sins, which you claim that you yourself have met it (them) already.
⇒ I am saved and my sins are forgiven because I have been .
<週報からの引用終わり>
上の問いの空欄に、人間の行いを入れると、それは【行為義認】という、主イエスの恵みを通しての罪の赦しを必要としていない自分自身の存在を肯定することになる。例えば、「わたしはバプテスマを受けたから救われた」と言えば、それは、その自分の「バプテスマ」という行為の中に含まれている形式的な間違いや、神学的な勘違いや、信仰的な足りなさなどについては、「もう神の憐れみに基づく赦しを必要としてはいない」ということを、実は言っているのである。そして、たとえ口に出して言っていなくとも、裁いている相手が実際にはまだいなくとも、原理として、心の中では、その正しさの立場から、他の人たちに対して、「あなたはバプテスマを受けていないから救われていない」という裁きを下しているのである。その、自分の正しい立場から他者を裁くことによって、その人は、より正しい者として神に褒められるのではない。逆に、罪を赦される必要のない自分を誇ることによって、神から遠く離れるのである。
その意味で、「バプテスマを受ければ救われる・受けなければ救われない」という心で受けるバプテスマの儀式の断行はは、実は、原理的に、人を神から遠ざけてしまうのである。バプテスマを考えている求道中の方に「あなた、早くバプテスマを受けないと救われませんよ!明日交通事故で死んでしまったらどうするんですか!?」と迫ってバプテスマを勧めることは、決してしてはならない。なぜなら、そのように迫ることで、行為義認の原理の中にその人を引き込み、そして閉じ込めることになるからである。その人は、その信仰の生涯を、神の恵みでは無く、自分の行為義認の生き方に生きることになってしまうのである。罪を赦された自由人でありながら、刑務所暮らしを強いることになるのである。
罪深い女は、罪を恵みによって赦された結果として、自分でもどうしようもないような喜びが心に沸き上がり、主イエスを心から愛する行為へと促された。その促しは霊的な、神の祝福である。同じように、例えばバプテスマも、その行為は、主イエスを信じて罪を赦されて救われた者に神が与えて下さる、賜物としての心の促しに基づく行いなのである。すなわち、バプテスマは救われるために受けたり、受けないと救われないから受けたりするものではなく、自分を救って下さった神の恵みと、罪を赦して下さった主イエスの愛が、自分の心の中で確かに実感として受け止められた時、そこに神が促して生み出して下さる、その人への祝福の出来事なのではなかろうか。父と、御子と、聖霊が、共に喜んで微笑んでいて下さる出来事が、そこに起こっているのである。
バプテスマは、その意味で、人間が救われるために行うことでは無く、救われた者が、神に祝福される恵みの出来事なのである。だとしたら、だからこそ、主イエスを信じて罪を赦され、そして救われた者が、バプテスマを受けない(それに促されてゆかない)ことは考えられないのである。その神の促しの結果として人が与えられるバプテスマへの動機は、「それをすれば救われる」という条件クリアの満足感などよりも、遥かに重く、素晴らしく、尊い意味がるのである。その意味で、私は過去にバプテスマを受けて本当に良かったと思う。主イエスを信じる方々も、心を促されてバプテスマを受けて欲しいと心から思う。(その心から言うならば、バプテスマの形式が、浸礼であるのか滴礼であるのか、それはもう問題とはならない。なり得ない。)
神の恵みを受けよう!主イエスを信じ、罪を赦され、そして、主イエスを愛する行いへと促されてゆこう。そして共に歩もう!