<週報からの引用おわり>
動物を捕獲するための罠(わな)は、原理的に、動物をおびき寄せる餌と、閉じ込める囲い、そして、入ることはできるけれども出ることはできない入口の構造によって構成される。一方通行の道と、一度はいると出られない現実が組み合わさって一つの世界;そしてその世界の中へと動物を誘い込む魅力のある物体。
アダムとイブがエデンから追放されてしまった物語、そして福音のメッセージと、どこか重なる。
アダムとイブは、悪魔に騙されて、善悪の知識の木の実が自分たちを美しく賢くしてくれる魅力的な者だと勘違いして、それを食べてしまった。その行為によって、人は、一方通行で戻れない「罪の道」に入ってしまい、死という檻の中に閉じ込められてしまった。
しかし、主イエスの十字架と復活によって、この死の檻の片隅に、風穴があいてもう一つの道ができた。人は、その道を信じてそこに歩み入るることで、これまた一方通行で戻れない「救いの道」に入り、永遠のいのちという檻(神の愛)の中に閉じ込められてしまった。「死の檻」という現実への扉は、背後で固く締められてしまい、「永遠のいのち」という現実への扉が、地平線の向こうで、大きく開かれて私たちを待っている。
そこには、神様がアダムとイブを最初に造られた時に満ちていた、神と人との愛の関係、人と人との愛の関係、愛が満ちている現実がある。その愛の現実のほんの一部を、私たちは今、肉体にあって生きる中で味わい、現わし、伝えて行くのである。
今、教会に求められていることは何か?と問うことは、「教会が内外に対して愛を味わい、現わし、伝えるために必要なことは何か」と問うことであり、「どのように聖書の命令通りに行動すれば正しくなれるか?」と問うことでは無いのである。
しかし、大切なのは、教会の心が愛から離れて行く時、教会は、争いや、怒りや、肉の思いのままの欲望が支配するようになり、聖書が私たちに与える命令から、どんどん乖離(かいり)してゆくことである。肉の思いのまま、神を見ずに生きてゆこうとする教会に対しては、律法は悔い改めを強く求めることだろう。しかし、もし教会が、心からお互いを、世界を、神を愛する人たちの集まりとして存在しているなら、彼らを裁く律法は何一つ存在しないのである。
愛を求めること。これが教会の命である。
「聖書を理論的に、理性的に、解釈して理解することで正しくなれる」というのは、本来私たちが避けなければならない思想なのである。
私たちは、「聖書を理論的に、理性的に、そして霊的に受け止め、愛し合おう!愛し合う力を神様から聞き、与えて頂こう!」 そのように聖書を読み、学ぶべきではないだろうか。