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イエス様は、「吉野家」と「すき屋」、どちらを好まれるだろうか。

2/20/2018

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今回は緩急話題を一つ。
タイトルを見て、なんのこっちゃ?と思ってくれたら幸いです。説明しますので、興味のある方は、以下をお読みください。

アメリカには、バンパーステッカー(Bumper Stickers)というものが広く売られています。自分の宗教や政治的な意見を象徴する長方形のステッカー(マグネット式ではがせるものもある)を、自分が運転する車のバンパー部分に張り付けます。Google で画像検索をかけると、色々出てきますが、例えば、下の写真のようなものが見つかります。
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一枚目は、こちら。ヒラリー・クリントンさんを2016年の選挙で大統領に!と言いつつ、さらにその8年の任期が終わった後は、オバマ前大統領の妻のミシェル・オバマさんを大統領に!という、自分が政治的に誰を支持しているかを示すバンパーステッカー。民主党支持者なのか、それとも、米国史上初の女性の大統領を切望しているのか、それはちょっとわからないですが。

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二番目は、こちら。ちょっと強烈です。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の宗教シンボルをアルファベットの文字になぞらえて”toxic(毒性あり)” と書く事で「宗教は毒だ」と主張するもの。無神論者や、対立ばかりして戦争さえ引き起こすものとして宗教に幻滅している人が好んで車に張るかも知れません。

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三番目のこちらは、ちょっと謎。
「イエスならきっとウィンカーを出したはずさ!」と言うもの。
・・・​このバンパーステッカーは何を言おうとしているのでしょう。

一つの可能性としては、ウィンカーを出すかどうかということみたいに、何でもかんでも W.W.J.D? 英語にすると、What Would Jesus Do? すなわち、「こんな時イエス様ならどうするだろうか?」と問いかけているクリスチャンに対する揶揄あるいは自虐ネタかも知れません。



W.W.J.D.の本当の意味とは何だろう。
私は、アメリカに住んでいた時は頻繁に、また日本のクリスチャンの仲間たちの間でたま~に、この「W.W.J.D.」というフレーズが使われているのを耳にして来ました。その一言は、一見するとその人が、いつ、どんな時でも、どんなことについてでも、常に主イエスを模倣して、主イエスに従おうとして一所懸命になっているような印象を与えます。「自分は信仰深く、敬虔な信仰者だ。神の導きに従って正しいことを選択したのだ!」という理想のイメージが、他者に対して、いえ、と言うよりむしろ、誰よりもその本人の心の中で、描かれてゆきます。

しかし、その「信仰深い自分の姿」というのは、実は幻想なのだと私は思うのです。いや、最悪の場合、その自分の理想の姿は偶像になるのです。その、人間が自分の心の中で描いた、「善と悪の知識」に基づく「自分は善でありたい・善である・悪でありたくない・悪ではない」というイメージの中で、人の魂(Soul: たましい)と心が、拘束され、疲れ果て、傷ついているとさえ、私は思うのです。なぜなら、W.W.J.D?「イエス様ならどうするだろう?」 と問う事は、本質的には、自らの主観の中だけで成り立っている思考だからであり、そこからは本当のいのちの与え主である神の聖霊が締め出されてしまっているからです。

さて、英語の文法の話ですが、W.W.J.D? の W.D? は "would do?" の頭文字で、これは架空の話をする用法であって、「こんなとき、もしイエス様だったらどうするだろうな~?」という意味です(参考記事)。それは、「これこれ、こういう時には、イエスは、これこれ、こういうことをなさった」という事例としての具体的な聖書の知識に基づいて、主イエスのご行動を模倣としようとする問いかけではないのです。むしろ、それは、あくまで、人間が直面する様々な問題や疑問の中で、主イエスの御行動を人間の側で主観的に、想像的に、そして応用的に描こうとしているのです。

そのように、W.W.J.D?: What would Jesus do? 「イエス様ならこんな時どうするだろう?」 と問いかけることは、その英語のフレーズの文法的な意味からしても、結局は、人が心の中で悩むとき、その人が、自分の心の中で主観的に育まれている(形成されている)「主イエスのイメージ」と自分自身の心の思いとを対話させているに過ぎないという事は、きちんと理解・自覚されなければならないと思うのです。その意味では、W.W.J.D? と問いかけることによって得た決断や導きというものは、その人の心の中で認識された問題に対する、その人の心の中で生成された決断と導きであって、それゆえに、それは神ご自身が命令された、神ご自身の御心とは、本質的に異なるものだという事になります。

言い換えると、W.W.J.D? 「イエス様ならどうするだろう?」という問いは、本質的には W.S.I.D? : What should I do? 「私はどうすればよいのだろう?」 という人間の内的な自己に対する問いに、その人本人が、これまた内的に自己の心の中で解答を求め、内的に納得しているのであって、自分の存在の外に居られる父なる神の御名を呼び求めつつ、外から自分を救いに来てくださった主イエスを信頼する信仰に立つこととは、どこか異質なものなのだと結論せざるを得ないのだと、思うのです。

​

W.W.J.D. よりも、W.D.J.D.

私が伝道者(牧師)として最近思わされているのは、言ってみると、神様が人間に求めておられるのは、人がいつもW.W.J.D? と問いかけて、常に自分を監視しながら、自分の行動を(イエス様にならって)正しくしてゆこうとする努力では無いという事です。言い換えると、神様は、クリスチャンが牛丼を食べに吉野家に行こうが、すき屋に行こうが、そんなことには関心は無いであろう、という事です。むしろ、人間が神様の御前に努力して考えるべきことは、一心に、W.D.J.D? What did Jesus do? 「主イエスは、何をなさったか」ということだと思うのです。そこにこそ、私達が毎日の生活の中で規範とするべき主イエスの御姿が現れているからです。

最も端的で、そして劇的な、私たちが見上げて心に刻み付けるべき主イエスが実際になさったご行動とは、主イエスの十字架での死と、そして復活です。ここに、私達の模範があるのです。使徒パウロも、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ書2:29-20)と書いている通りです。

私達が主イエスを信じた時に、私達もキリストと一緒に十字架に付けられたという事は何を意味するのでしょうか。それは私たちが、今、人間としてはまさに「死人」であるという事です。そして、死人は、「こんな時どうするべきだろうか?」などと問いません。なぜなら、「自分は、どうするべきだろう?」と問うことは、その人が心の中で、「自分には何かが出来るのだ!」と、自分の力で成し遂げるとが出来ると思っているその何かに、神の御前にあっての価値があると思っているからに他ならないからです。

しかし、主イエスの十字架が示すのは、神の御前に無価値なものとして捨てられた、人間の死人としての姿なのです。「わが神、我が神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と、神の御子をして言わしめたほどの、重大な事件がそこに起きていたのです。それは、人間が、自分の行いについては、神の御前にあっては死人となったという劇的な出来事なのです。

そんな「死人」でしかない私達が、「こんな時イエス様ならどうするだろう」と問う事が神様の御前に何か意味を持ち得るとしたら、それは、「私の内に生きておられるキリスト(すなわち聖霊)は、一体何をなさるおつもりなのだろうか?」という、人間としての自分が描く想像や予想をはるかに超えて働く神様の御業と御心への、わくわくするような期待感や、はつらつとした希望のことを言うのです。すなわち、自分の力の完全な放棄・無力化の先にしか見出されることの無い、神の絶大な恵みの御力への完全な依存と信頼を意味しなければならないのです。

その意味では、厳しいですが、人が W.W.J.D?「イエス様はこんな時どうするだろう?」と問う時、それが例えば:
 車を運転するときにウィンカーを点けるか、点けないか、
 牛丼は吉野家か、すき屋か
 自分は献金するべきか・しないか、
 献身するべきか・しなか、
 結婚するべきか、しない方が良いか
 教会に行くべきか、行かない方が良いか、などなど、
そういう人間の行動の良し悪しや正否についての解答を求めているなら、本質的には依然として結局は What should I do? 「私はどうしたらいいんだろう?」と問い続けているのであり、それは、「私の自力による判断や決断に未だに神の御前に積極的な意味があるのだ!」と信じている心です。そのような自力に頼む心は、パウロのように「私はキリストと共に十字架に付けられて死んだ」とは決して信じようとしていない、自分がもうキリストにあっては死人に等しいのだということを信じようとしないような心がそこにあるのです。

そして、もし人が、パウロのように、自分は既に一度、神様の御前には死人になったと本当に信じるなら、その人の心は、「自分がどうあるべきか」とか、「自分はどうあらざるべきか」という「自分自身の姿」に対する一切の理想や落胆から解放されているはずなのです。そして、そんな死人をさえ生かして下さるような、いや、死人をこそご自分の恵みの力を注ぐことに依って生かして下さるような、神の恵みの力、キリストを復活させた神の愛の力に依存するようになるのです。すなわち、内在の聖霊の働きに自らの運命を全面的にゆだねようとする心を育まれてゆくのです。そのように聖霊に拠り頼んで信頼する信仰者の口からは、もう、W.W.J.D? という問いは意味を失い、代わって、ひたすら、W.D.J.D? すなわち、父なる神が主イエスキリストを通して、どれほど大いなることを私にしてくださったか!という感謝と讃美へと関心が傾き、そして集中してゆくでしょう。

もし私達が、自分自身の力によって信仰を素晴らしくしようとしたり、その過程で、W.W.J.D?と問いかけることをやめられないのであれば、もしかすると、それは、自分の心の中で、神様の、神様にしかお与えになることが出来ない、素晴らしい救いと導きの十全性を、自らあえて損なうような不信仰に陥っているのだとさえ言っても過言ではないかも知れません。その心は、例えば、「
盗むべきか、盗んではいけないか」、「姦淫するべきか、してはならないか」 というような、律法によって明確に解答が与えられている事でさえ、人が自分の心の中で主観的に善悪の答えを出してしまおうとしているような心と、実は同質なのかも知れません。

クリスチャンが「自分自身の素晴らしい信仰者としての輝かしい姿」を思い描き、その理想に邁進しようとするのは、実は偶像崇拝になりかねないのです。その偶像により、神の恵みに溢れた愛、すなわち聖霊の働きが、心から締め出されてしまうのです。その失敗は、かつて主イエスに反抗したパリサイ人たちの姿が、はっきりと物語っています。神を愛そうと願うクリスチャンにとって、神の愛を自ら締め出してしまうような事をしてしまうのは、苦痛であり、不幸なことで、何の益もありません。

偶像崇拝は、神に愛されるために創造された私達を苦しめるものなのです。W.W.J.D? イエス様ならこんな時どうするかと問い続ける中で、心のが窮屈になり、ピリピリしたり、失敗を恐れて怖くなったり、イライラしたり、喜びが無くなったりすることに気付いたら、W.D.J.D. 主イエスは私のために何をしてくださったか?と、視点を変えてみる必用があるかも知れません。
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