「論語」に納められたこの格言は、学びの三段階を表すという:学びとは、知識の獲得の段階(知る)に始まり、自ら学ぶ意志が働く段階(好む)を経て、「学ばずにはいられない」という積極的な感情が働く(楽しむ)という段階へと至る。この「楽しむ」ことが、何かをやり遂げる原動力になる、と解釈できるという。(引用元)
もし、「信仰の段階」というものがあるとすれば、それは、神を知識として知る段階に始まり、神に従おうとする意思が働く段階を経て、そして「神を喜ばずにはいられない」という積極的な神へ向かう心へと人が導かれる過程ではないだろうか。信仰の形式的な正しさ以上に根本的に大切なのは、「神は私にとって喜ばしいお方か?」という問いであろう。神を信じて従おうとしているのに、どういう訳か、神が喜ばしくなく、むしろ苦々しい。もしそういうことがあるならば、その信仰が終着点では決してないことを覚えて欲しい。神は、主イエスの十字架と復活の力を聖霊を通して私たちに与え、ご自身の力を原動力として私たちを神の恵みと慈しみの中へと、必ず、招き入れていてくださるからである。