クリスチャンには、自分の努力で「愛」を実践するべき、という考えが根強い。そこでは、自分の愛を神様がお喜びになり、自分の愛によって信仰が完成に近づくと思われている。しかし実際は、人は「自分が愛した」という達成感を求めて、愛の努力を重ねるが、人には永遠に到達できない目標を追い続けることになる。人が努力して神(キリスト)のようになろうとする信仰は、有益だろうか。
もし、スマフォのゲームで、すべてのレアキャラが、すべてのユーザーに、無料で提供されたなら、終わりのない無益な課金は止むだろう。父なる神は、信じる者たちすべてに、神に喜ばれるためのすべてを、キリストの姿を、無償で与えてくださった。そうと信じるなら、神の御前に自分が努力しようとする心も止むはずなのであるが、人はなおも努力して神を喜ばせようとする。これはいったい何故だろうか。