<週報からの引用終わり>

「盲目な愚か者め!
嫌な奴!
変態!
共産主義者め!
神を冒涜する者め!
不道徳な気味の悪い奴!
この世のクズめ!
ボカ!ボカ!ボカ!」
「おいおい、
ちょっとお互いに敬意を持とうぜ!」
すべての人たちを深く愛しておられる神様が、すべての人たちを救おうと、今、働いていて下さる。その憐み深い慈しみの心の中に先ず自分自身が囚われ、包まれ、かくまわれるところにある平安。その平安から、同じ平安の中へと人々を招こうとする心からの宣教。そのような宣教なら、それは本質的に相手への愛に基づくものとなるはずで、そこには裁きの心は止むはずなのに・・・。
教会は、聖書を誇ってはならない。
教会が誇りとするべきことはただ一つ。主イエスの十字架。ただ一度、永遠の罪の贖いとして、主イエスが私たちのために死んでくださったということが起こったという事実。神様が私たち人類を救う御心を、今も、この時、この場所で持っていて下さるということ。神の救いの心こそ、私たちのよりどころ。私たちの誇り。