近所の大学での勤務時間を持っている。
学生たちとの交わりを持つためだ。
時間に都合が付けば、
大学のキリスト教センターで行われる
チャペル礼拝に出席している。
昨日のチャペルでのスピーチは、
大学キャリアセンター職員の女性の方による
就活についての、お話であった。
もちろん、私は現在、
就職活動をしている訳ではないので、
最初は、お話しにあまり興味が無かった。
しかし、ある時、その無関心が一変して、
身を乗り出して聞こうとする態度に変わった。
それは、スピーチをする人が、
自分自身の体験(失敗談)を語り、
そこで感じた事を、
かつて自分自身にインパクトを与え、
今なお自分自身の実存に深く関わる真実として、
誠実に相手に伝えようとている、
と感じた時だった。
私は、
ここに、福音伝道の一つの在り方を見た
と感じた。
キリスト者は、伝道に熱心になろうとする。
私も、かつて伝道に熱心になろうとした。
しかし、私の言葉も努力も空回りした。
なぜか。
そこに「私」の「真実」が伴っていなかったからだ。
私の、
私の実存に深く関わる真実を伝えるべきなのに、
キリスト教の情報、規律、教理、教条などという、
自分の「外」に書かれている様々な規定を
相手に信じさせることで、
「伝道一丁上がり!」
という目標と態度で伝えていたからだ・・・と思う。
伝道に先立つべきものは、
私の中に生きる、キリストの真実。
そこにある、喜び。そこに生ずる、愛。
伝道したいと思うなら、まず、
その喜びと愛、様々な御霊の実を
自分の真実として、確信し、実感し、
そして体験してゆかねばならない。
その真実を現すとき、
人は、キリスト者の言葉に、
最初は無関心であっても、やがて、
耳を傾けるかもしれない。
その真実が無いまま、
伝道集会や様々なイベントを行っても、
空回りしてしまうのではなかろうか。
キリスト者の側で一方的に「伝道やったぞ!」
という満足感を与えるかもしれないが
そのメッセージが相手に伝わるかどうか、
相手に聞いてもらえているかどうかは別問題である。
それは自分と神様の間での踊り。
しかし、その踊りを見る観客が一人もいないのに、
「みなさんありがとう!」と歓喜しているとしたら、
それは単なるナルシズムである。
舞台を降りて、衣装を脱いで、
普段着に着替えて、
劇場を出て、
みんなが居る街中で、
彼らが居るそれぞれの場所で、
笑顔で、真実を話そう。
そして相手の心に耳を傾けよう。
伝道とは、そういう単純な、
しかし、自分自身の真実を、誠実に伝えようとする、
ある意味、
自分自身の「全人格を賭けた」
使命なのだから。