と聞かれたら、どう答えますか?「聖書を読んだ時」、「心の中に不思議な声を聞いた時」、「苦しみから奇跡的に救われた時」などの答えが思いつきますが、いかがでしょうか。私たちは、自分の考えや、体験や、願いの中に、神の御姿を「ふんわりと」思い描き、自分の思い通りの神を神だと信じ、自分の考えと違う神は神ではない、と言うようなことをしてはいないでしょうか。
聖書が語る人と神との出会いは衝撃的です。神は、キリストの十字架を通して、ご自身の栄光を啓示なさったと言うのです。(例:ヨハネ第17章参照)すなわち、御子の十字架こそが神の御姿の現れであり、故に、十字架にあってのみ、私たちは真の神と出会うのです。十字架を通して来ない、あらゆる「神についての」言葉や、考えや、教えは、神以外の何かへと私たちを迷わせてしまうのです。
十字架の言葉は、私たちをキリストと共に葬り去り、不合理なほどに偉大な愛で私たちを包みます。この十字架の前では、私たちの努力は意味を失い、むしろ、神が聖霊を通して与えてくださる復活の力だけが、私たちの力となります。自分の善行の努力を通して神に近づき、喜ばれようとする考えは、人の目には道徳的で、敬虔で、信仰深い態度だと賞賛されても、実は、その人の信仰を十字架とは真逆の方向へと捻じ曲げてしまう罪なのです。私たちの中に、十字架は立っているでしょうか。