自分が罪人(つみびと)だと深く理解したら、聖書は罪の赦しを力強く語ってくれるのか?
自分が傲慢だと自覚したら、聖書は謙遜を教えてくれるのか?
イスラエルの歴史をきちんと理解したら、神の言葉は私の心に届くのか?
・・・いろいろと祈りながら問いかけて、考えていると、自分の勘違いに気づかされた。
神様の言葉は、神様の言葉だから、神様の言葉になる。
それ以外に理由なんてないし、いらない。
神様が私を愛していることに理由なんて付けられないように、
神様の言葉に「こうすれば、これは神の言葉になる」という条件など付けられない。
私が求められているのは、その言葉に真剣に耳を傾けること。
それが自分へ語られている言葉だと信じること。
その信仰が求められていることだ、と思った。
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私がするべきことは、
神の言葉を聞くこと。
神の言葉を見ること。
つまり、・・・主イエスに聞き、主イエスを目撃すること。
主イエスを見るとき、そこに罪の赦しがある。
その罪の赦しを見たとき、必然として、自分の罪は示される。
主イエスを見るとき、そこに本当の謙遜がある。
その真のへりくだりを見たとき、必然として、自分の傲慢が示される。
主イエスを見るとき、そこに父なる神様を見る。
その深いあわれみのお心をもって、人を救おうとされてこられた、神様を見る。
その、人を深く愛する神様を信じるとき、
ダビデの子孫であり、アブラハムの子孫で在られる、
主イエスのそのお姿の背後に、
イスラエルの歴史の本当の姿と、その意味が示される。
全部逆なんだ・・・
人は、自分を知って、神を知るんじゃない。
神を信じるから、自分を知るんだ。
だから、
説教者は、まっすぐに、神の言葉を伝える。
それ以外何もできない。
説教(礼拝全部)は、
教育じゃない。
自己吟味でもない。
人の罪をあれこれと指摘するものでもない。
説教は、神様のみ言葉に、人が聞く場。
神様に語っていただく出来事。
説教者も、また会衆も、共に、その出来事の中に
呑まれてしまうのだ。