<週報からの引用終わり>
『私は罪びとです』という一言の重み。パウロが語る重みは、『まぜるな危険』 の重みである。神の言葉、神の正しさの知識、神の律法をいくら知っていて、いくら行ってみても、人間の心がそれと交わると、そこにはモクモクと塩素ガスのような毒が発生するのである。その毒は、神の言葉に機会を得て、人に罪の行いを起こさせるのである。
人間が神の言葉と接すると、その心は、人を死なせる毒素を生み出してしまう。だとすると、神の言葉が人間の中でいのちの力となるためには、人間の心以外の何かが、神の言葉と化学反応を起こさなければならないのである。では、その人間の心以外の何かとは、一体何か。・・・ それが、内在の聖霊である。
神の御心である聖霊が、神の言葉に力を得て、人の中にいのちを生み出す。
これしか、キリスト者が生きる道は無いのである。
そして、そのように、神の御霊が人の内に働く時、そこに生み出すものは何か。聖霊と神の言葉が反応して生み出される、聖霊の実とは何か。・・・それが、愛である。その、聖霊の実によってのみ、キリスト者は、は生かされているのである。
キリスト者が、聖書を根拠としていかに自分の正しさを主張したところで、それは人間の心とみ言葉が化学反応を起こして発生した毒ガスに過ぎない。人間の主張が毒ガスでないことの根拠は、それが聖霊に導かれているかどうかである。聖霊の導きの根拠とは何か。それは、聖書的であることでは、ない。人の主張の真価を試すのは、それが聖書にどれだけ根拠を置いているかどうかではなく、その主張の中に、神の愛が込められているかどうかである。愛が無いなら、無益なのである。それは、もし神の御言葉が聖霊によって導かれたものなら、そこには愛があるはずだからである。
聖書に自分たちの正しさの根拠を置いていますと主張するすべての魂は、パウロの言葉によって、絶望的な自己吟味を求められる。しかし、その絶望ゆえに、主イエスの愛と恵みが輝くのである。そして、その愛の輝きこそが、人を絶望から立ち上がらせるのである。これが、私達の希望なのである。