<週報からの引用終わり>

EFFORT とは 努力、GOAL とは目標である。
努力は、目標を達成するための手段に過ぎない。
目標を間違えた努力は、無駄である。
しかし、
目標をしっかりと見据えたなら、どんなに小さな努力も、確実に何か実を生じさせている。
キリスト者がしっかりと神から聞かねばならないのは、
「もっと努力せよ!」という声ではなく、
「目標を見ているかい?」という自己吟味を迫る問いかけではなかろうか。
努力することは決して悪い事ではない。キリスト者の人生は、漫然と何も努力せずに、すべてを神任せにして盲目に、怠けて生きて行くことではない。上の記事で「努力=不信仰」という図式を描いているのは、目標をしっかりと見定めた努力をしなければ、せっかくの努力が結局無駄になってしまうということを言いたいのである。そして、その、無駄な努力をしているキリスト者が(自分勝手な推測だが)とても多いように思うのである;もちろん、自分を含めてである。
私達には、キリスト教の信者になるということの意味が、どこか勘違いされている面があると思う。例えば、クリスチャンになることで、社会的な立場が向上したり、知的な集団(インテリ)の一員になったと思ったり、間違いや誤りなど全くないと思う世界宗教を誇るようになったり、品行方正で、清く正しく美しい人間になることを求められてそれが良い事だと思ったりすることはないだろうか。
でも、そのように、人間的な素晴らしさを、いくら努力して獲得しても(あるいはできなくても)、それは主イエスが求めておられる単純明快な信仰から、人を脱線させてしまうかも知れないと思うのである。信仰から脱線するよりは努力しない方がマシである。いや、信仰から脱線するような努力は、即刻止めなければならない。
クリスチャンであることの神髄は、宗教ではない。しかし、人間が自分勝手に良かれと思って追求する清いライフスタイルでもない。クリスチャンであるということは、自分をキリストの内に救い出して下さった神様の御業と愛を信じ、信じ続けることだ。クリスチャンであることとは、その意味で、本質的には、神の御業の「証人」としてこの世界で生き続けることである。そしてその「証」は、人間の品行方正・清く正しく美しいライフスタイルの中にではなく、むしろ、人間としての絶望や罪悪という「心の闇」の中にあって輝く希望の光として証されなければならない。
キリスト者には、自分の正しさではなく、先ず、神の正しさを一心に信じる信仰が求められていると言って良いと思う。ある意味、人間は、正しくあってはならないのである。人間の正しさを追求してはならないのである。