人の存在の本来の姿は、神が与える祝福と恵みを一身に受けて神の栄光の現れとなるように創造された器である。その本来の姿においては、人は「自分の力で生きる」という責任を負わされていなかったし、その可能性さえ考える必要はなかった。
人が神のために努力することが素晴らしいという人の思いは、神が本来的に人にお望みになった御心とは真逆の、罪が生み出した呪い、過酷な労働だ。人が自分の努力で生み出すものは、それがどんなに良いものに見えても、神の目には、呪われたものでしかない。神が喜ぶ何かを、人が生みだす可能性があるとすれば、それは、彼が滅んで塵に帰り、神が望む姿へと再び新しく創造されることである。人の滅びこそ、神の真の命への道である。それこそが、十字架と復活である。